平尾誠二の華麗なる経歴まとめ!若い頃から超イケメンなスターの半生とは?

平尾誠二とは

快進撃で湧くラグビー日本代表。

その裏で、ある一人の人物が注目されています。
それが、平尾誠二。

ラグビーファンなら知らない人は皆無であろうルックス・実力ともにスター性を兼ね備えたその魅力に「ミスターラグビー」と称されるレジェンド的存在。

残念ながら、53歳という若さで亡くなり、今は天国からラグビーの躍進を見守っていますが、ラグビー語る上では必ず欠かせない人物でもあります。

今回は、そんなミスターラグビー平尾誠二のその華々しい半生をまとめてみました。

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「ミスターラグビー」平尾誠二の経歴

平尾誠二 経歴

名前:平尾誠二(ひらおせいじ)
生年月日:1963年(昭和38年)1月21日
没年月日:2016年10月20日(53歳没)
身長 180 cm
学歴 伏見工業高校〜同志社大学
出身:京都府京都市南区

高校・大学・社会人と全てのフィールドで頂点を極め、日本ラグビー界の躍進に絶大なる影響を与えてきたその華麗なるラグビー半生から『Mr.ラグビー』と称されるほど。

そして、そのモデル顔負けのその端正なルックスからラグビーの実力だけでなく、華も持ち合わせたスター性も兼ね備えた伝説のラガーマン。

2016年10月20日に残念ながら胆管細胞ガンで53歳という若さでその生涯に幕を閉じましたが、華麗なる経歴だけでなく、そのラグビー界に多大な影響を与えたその太く短く生きた半生は今もなお伝説として語り継がれています。

【時系列】平尾誠二の若い頃からの華麗なるラグビー経歴

平尾誠二 日本代表

さて、そんな名実ともに絶大な人気を誇った平尾誠二さんの半生。
それは一体どのようなものだったのでしょうか?

若い頃から遡り詳しくご紹介していきましょう。

平尾誠二の若い頃からの経歴①幼少期〜中学時代

平尾誠二 陶化中学

ラグビーとの出会いは中学1年の時。
京都市立陶化中学校に入学した平尾誠二さん。

小学校の時は野球をしていたという平尾誠二さん。

しかし、「野球部は部員が多くて下積みばかりしていた」そうで、そんな時にラグビー部を見たら、12、3人程度、先生もとてもいい先生で楽しそうに練習をしていた」そんなささいな理由からラグビー部に入部したそう。

平尾誠二 陶化中学

↑一番下列の右から3番目が平尾誠二

寺本義明監督(上の画像一番右)が築いた「上下関係などない自由な風習」のラグビー部の風潮の元、そこでラグビーの魅力にどんどん惹かれていった平尾誠二さん。

元々高い運動神経を持っていたこともあり、その才能はみるみるうちに開花。

また、のちのインタビューで幼少期は自己主張をすることがなくおとなしく人前に出て元を喋ることなんて到底できなかったが、ラグビーに出会ってからコミュニケーションができるようになった。

そんなことを語っており、集団競技の中でも非常にコミュニケーションが重要視されるラグビーという競技はその人間性にも大きな影響を与えたようです。

平尾誠二 陶化中学時代

また、中学校から高校まで同じ進路を辿り、平尾誠二さんの青春時代をよく知る三村勝真さんは「勉強よりラグビーをしている方が長いのに、成績は常にトップクラス」こんなことを語ります。

まさに、スポーツ万能で学業優秀という文武両道を地で行く生徒だったようですね。

そして、勉強もできてスポーツもできる、そしておまけにイケメン。

モテ要素満載の平尾誠二さんは言うまでもなく女子にかなりもてたそうですが、いつもクールな対応をしていたそう。

バレンタインの時なんかも校門で女子にチョコレートをもらっても、「ありがとう」と言うこともなく、スッと行ってしまった。

そんな女子には塩対応だったというエピソードなんかが、三村勝真さんから語られていました。

平尾誠二の若い頃からの経歴②伏見工業高校時代

平尾誠二 伏見工業高校時代

そして、中学を卒業し、進学先に選んだ先はのちに全国制覇をし、スクールウォーズの原作の元となったあの伝説となった伏見工業高校に進学します。

伏見工業高校への入学のきっかけは、元日本代表代表でもあり、スクールウォーズの主人公でもある滝沢賢治のモデルとなった泣き虫先生で知られる山口良治さん。

平尾誠二 伏見工業高校時代

元々平尾誠二さんは特待生(授業料免除)で名門花園高への入学が決まりかけていたといいます。

しかし、平尾誠二さんが中学3年の時に出場した京都府秋季大会決勝戦を見た山口良治さんがそのプレーにほれ込み平尾の自宅を訪ね、平尾誠二さんを説得しました。

山口良治さんは既に花園高へ特待生で進むことが決まりかけていた平尾誠二さんに断られることは覚悟の上で自宅を調べ、足を運んだそう。

当時の伏見工業はラグビーが強くなってきたといえ、今では考えられないほどの不良生徒の集まる高校。

当然両親は猛反対しますが、「伏見で日本一を目指そう。必ずや、私が日本代表に育てあげる」と山口良治さんに熱心に口説かれ、両親の反対を振り切り1978年伏見工業に入学。

「もし平尾が花園高に行ってしまえば、3年間は勝てないやろうと思った。チームはようやく力を付けてきていたが、まだ学校はワルの集まり。親御さんは『あんな学校には行かせられない』と考えていたやろう。親を説得するのは難しかった。少しでも望みがあるのならと、必死で本人を口説いた。俺と一緒に花園を倒そう、日本一になろう。必ず、日本代表に育ててやる、と」 山口良治談

日刊スポーツより引用

平尾誠二 伏見工業高校時代

そして、1978年に伏見工業に入学した平尾誠二さん。

1年時の京都府大会決勝で花園高に敗れた際は、悔しさの余り表彰式で受け取った準優勝トロフィーを投げ捨てて帰ってきた。そんな逸話まであるぐらいの平尾誠二さんの負けず嫌いを象徴するエピソードもあります。

しかし2年時の1979年に悲願の全国大会初出場しベスト8。
そして、3年時は主将としてチームを牽引し、全国大会で伏見工業を初優勝に導きました。

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平尾誠二の若い頃からの経歴③同志社大学時代

平尾誠二 同志社大学

高校で全国制覇という華々しい実績をあげた平尾誠二さんが選んだ進学先は、地元京都でもあり、大学ラグビーの雄でもある同志社大学に進学。

ここから平尾誠二さんはラグビーのトッププレーヤーの階段を駆け上がっていくことに。

平尾誠二 同志社大学

2学年上には林敏之、1学年上には大八木淳史というのちに日本代表を背負って立つ逸材の中で、平尾誠二さんは1年生からレギュラーとして活躍。

この時の同志社は「大学ラグビー史上最強チーム」とまで言われるほどでした。

2年生になると日本代表に選ばれ、当時の最年少記録となる19歳4か月で初キャップを獲得。
その平尾誠二さんのラグビー人生はさらに輝きを増し、一気にスターダムへとのし上がって行きました。

平尾誠二 同志社大学

また、この同志社大学時代で、のちに平尾誠二さんのラグビー観を形成する上で重要な出会いを果たします。

それが、当時の監督である岡仁詩さん。
「枠にはまらず個を生かし楽しくゲームする」という指導方針を貫いていた岡仁詩さんの指導スタイル。

岡仁詩監督の目指す「自由で楽しいラグビー」は平尾誠二さんのラグビー観に大きな影響を受けました。

平尾誠二 同志社大学

そして、1985年には、平尾誠二さんを中心としたチームは、形にとらわれることなく、自由奔放でありながら合理的なラグビーで、当時は前人未踏と称えられた史上初の大学選手権3連覇を達成。

その後、大学王者の称号を引っさげ、当時日本選手権6連覇中の元祖ミスターラグビー松尾雄治を擁する最強王者・新日鉄釜石との試合に臨みますが惜しくも敗退。

しかし、その平尾誠二は将来のラグビー界を担う唯一無二の逸材として、誰しもが認める存在に。

平尾誠二の若い頃からの経歴④イギリス留学時代

平尾誠二 同志社大学

当時の日本では野球やサッカーのように、プロチームがなく、もし日本のラグビーを続けるには競技の性質上、社会人という企業に入らないとそのチームでプレーできない。そんな運命にあったラガーマン。

しかし、そのような境遇は平尾誠二さんの意向や考え方にそぐわず、ラグビーは大学で引退することを決意。

そして、大学を卒業した平尾誠二さんは外国で事業や起業をしたいと考えていたため、ロンドンにデザインを学ぶため留学しました。

平尾誠二 リッチモンド

イギリスを選んだ理由には、以前より望んでいたデザインの勉強ができることだけでなく、自分のラグビーのレベルが世界ではどの程度か知りたいと考えたこともあったといいます。

また、「ラグビーは22~23歳頃にちょうど体にフィットしてくる競技」そんな考えもあったそうで、本場のイギリスで自分のレベルを図りたいという思いだけでなく、ラグビーをやめるには勿体ない。

そんな思いもあったのでしょうね。

イギリスではリッチモンドクラブというラグビーチームに所属し試合に出場しながら、イギリスのデザイン学校の入学試験準備や受験勉強に取り組んでいた平尾誠二さん。

平尾誠二 リッチモンド

リッチモンドでは、毎週土曜日の午後に試合があり、チームの全体練習は火、木の週2回。
他の日は自主練習でした。

職業も年齢も違う人が集まり、個人の課題はそれぞれ違い、筋力をつけたい者はウェートトレーニングをし、走力が足りないと思う者は走りこむ。

みんなが集まる練習はサインプレーなどのチェックに充て、わずかな時間に集中してチームとしての総合力を磨く。

選手の個性を尊重し、「義務」ではなく「権利」としてラグビーに取り組む。

そんな同志社大学以上に自主性を重んじた英国流に、平尾誠二さんは大いに刺激され、ラグビーに対する熱も再燃。

そして、このこのリッチモンドでの経験もその後のラグビー人生のスタイルにも大きな影響を与えることになりました。

そんな中、ある事件が起こります…..

それが、1985年の『モデル事件』です。

平尾誠二 モデル事件

1985年8月12日、日本ラグビー協会は同年10月に行う日本代表フランス遠征のメンバーを発表。
しかし、そこに平尾誠二さんの名前はありませんでした。

その理由が、ラグビー協会の『アマチュア規定違反』を平尾誠二さんが犯したということ。

平尾誠二さんが『MR.ハイファッション』という日本の雑誌に広告モデルのような形で写真や記事が掲載されていた男性ファッション誌に出演していたというもの。

平尾誠二 モデル事件

抜群の容姿を買われてファッション誌にモデルで登場。

雑誌の中で、知り合いの音楽ディレクターらとともに最新ファッションをまとった平尾誠二さんの写真が、表紙やモノクロページに掲載されており、着ている服は全員、デザイナーズブランドとのタイアップ。

掲載されたページに商品のブランド名や価格などが明示されていたという内容。

しかし、撮影したのは1985年の3月ごろ。
半年近くたってから世に出てきたわけで、平尾誠二さんですら忘れかけていたそう。

平尾誠二 モデル事件

しかも、もちろん、金銭の授受などもなかったそうで、出版社側からすれば、普通の取材記事といのような扱いで平尾誠二さん自身もモデルなんてつもりはまったくなかったそう。

しかし、アマチュア規定に厳しかったその頃のラグビー界には通用せず、日本協会理事会で問題にされ、「競技で獲得した名声を利用して広告に出演した」ということが協会のアマチュア規定に違反したとされ、日本代表のフランス遠征メンバーから外されてしまいました。

平尾誠二 イギリス

↑こちらが当時の新聞の報道。

当時はドーバー海峡に近いブライトンという町で暮らして平尾誠二さん。

下宿先の電話が、しばらく昼夜を問わず鳴りっぱなしになり、三十代なかばぐらいの大家さん夫婦が、「あなたのせいで私たちは眠れない」とでも言いたげに取り次いできたそう(笑)

そんな状況に肩身が狭くなり、結局下宿を引き払うはめにもなりました。

違反を犯していた認識がなかったため寝耳に水でしたが、日本ではもうラグビーをしないと考えていたため深刻に考えなかったという平尾誠二さん。

しかし、アマチュア資格の停止は国際的なもの(日本以外でも試合に出られない)と知らされ、弁明のため一時帰国。

平尾誠二 モデル事件

大学の先輩でもある金野滋(当時日本協会専務理事=故人)さんからも連絡があり、烈火のごとく叱られ、これには「ぼくの不注意でした。申し訳ありません」と謝るしかなかったそう。

そして、汚名を返上したければ日本の一流チームで成績を出せ、と言われ、急遽日本での所属チーム探しに追われることとなり、それがきっかけで日本のラグビー界に復帰することに。

平尾誠二の若い頃からの経歴⑤神戸製鋼時代

平尾誠二 神戸製鋼

事件後は、多くの企業からあったオファーも消滅。
嘘のようにそれまであった企業からの連絡はなくなっていきました。

そんな折、偶然イギリス出張に来ていた以前より顔見知りであった神戸製鋼の当時専務であった亀高素吉と食事に行く機会を持つことに。

そこで企業を探していることを相談、すると「ならウチはどうだ」と言われ神戸製鋼行きを決めました。「神戸は遠足で行って以来、好きな街でしたし」とも語っています。

そして、1986年(昭和61年)に神戸製鋼に入社。

3年目にキャプテンに就任してチームの大改革に臨みました。

イギリスで学んだ『形にこだわらない自由なラグビーに対する考え方』を日本のチームでも取り入れました。

当時の日本では、ポジションごとにその役割を固定し、プレーに臨むのが当たり前。

しかし、そういった意識を無くし、『ポジションの役割を決めず、自分の判断で臨機応変に対応する』そんなラグビースタイルを目指しました。

平尾誠二 神戸製鋼

全員が走ってパスしてトライするという全く新しい方針を打ち出し、10番のスタンドオフが司令塔という常識を破り、自分の位置を12番のセンターに下げ、より広い視野から幅広い攻撃が出来る体制を取ったのです。

そんな型破りなスタイルは功を制し、全国大会の優勝経験のなかった神戸製鋼の7連覇に導くなど、黄金時代を築き上げました。

そして、そんなイギリスで学んだ柔軟なスタイルは神戸製鋼のラグビーだけでなく、日本のラグビーをも変えるきっかけにもなり、平尾誠二さんの功績は非常に大きかったとして今も語り継がれています。

ラグビー日本代表としての平尾誠二の経歴

平尾誠二 日本代表

選手時代の経歴

ラグビーワールドカップには、第1回(1987年)、第2回(1991年)、第3回(1995年)にそれぞれ出場。

特に第2回大会では、日本のワールドカップ初勝利(対ジンバブエ戦)の原動力として活躍しました。

その後一度は代表を退いたが、第3回大会に向けてのチーム強化の一環として臨時コーチとして招聘され、その後代表選手として本戦に出場し、通算35キャップ。

監督時代の経歴

平尾誠二 日本代表
そして、平尾誠二は1997年97年2月には史上最年少の34歳で日本代表監督に就任。
それと同時に選手としての現役生活にも終止符を打ちました。

その若さでありながら、日本協会会長の金野滋さんが「年齢は関係ない。選手のリスペクトを得ているし、日本で一番、ラグビーを知っている」と評すほどでした。

ウェールズを中心に開催された1999年第4回ワールドカップ(W杯)に監督として指揮を取ることに。

Mr.ラグビーが日本代表を率いるということで大変注目を浴びるだけでなく、W杯イヤーのパシフィック・リム選手権では日本を初優勝に導き、大きな期待を抱かせました。

平尾誠二 監督

結果は3戦全敗に終わりましたが、平尾誠二さんの日本代表にもたらした功績は計り知れません。

・海外出身の選手を積極的に活用するなど日本代表の「国際化」

・先駆けて相手チームの映像やデータ分析を実施

・サッカーの代表経験者を合宿に招き、キックを指導してもらうなど、ラグビー経験の有無に関係なく、短距離走や跳躍力など運動能力に優れた人材をスカウトする「平尾プロジェクト」も推進するなど、『他競技からの人材発掘』の先駆けを行う。

・海外遠征の航空機をエコノミークラスからビジネスクラスに変えるなど、代表選手の待遇を改善し、プロとして扱おうと試みる

などなど….

日本代表に大変革をもたらしたのも平尾誠二さんの監督時代からであり、今の日本代表躍進の「礎」ともなっています。

特に、日本代表の「国際化」は平尾誠二さんの鋭い国際感覚がもたらした大きな成果であり、最も直接的な日本代表の躍進につながった成果と言えるでしょう。

男も惚れる!平尾誠二のその魅力とは?

 

イケメンすぎるそのルックス

平尾誠二 イケメン

平尾誠二さんの魅力の一つとして何と言ってもそのルックス。

モデル顔負けのハーフのような顔立ち。その全身から放たれるオーラは実力だけではまとうことができない、天性のもの。

「努力して作ったものじゃない。何万人の中から選ばれる、アイドルのようなんですよね」こう当時の高校のラグビー部の同級生が語るように、生まれ持ったスターに必要不可欠な『華』

そんな努力では得れないものを持っていることも平尾誠二さんの魅力の一つでしょう。

リーダーシップ

平尾誠二さんはイケメンでラグビーが上手い選手。

そんな印象ばかりを持つ人が多いと思いますが、力強さと繊細さを兼ね備えた人物でもあり、そのリーダーシップという面においても天性のものがありました。

「強い組織をつくる」、「強いリーダーをつくる」そんなスポーツに関わらず、『目指すべきリーダーをあり方』というのも、世の中に示した人物でもあります。

34歳の若さで日本代表の監督を任されたその実績が全てを物語っていることでしょう。

・時間って命の一部なんですよ。今の時間を大事にできない人は、未来の時間もきっと大事にはできない。

・出来ない理由を考えたら、理由は山ほど出てきますから、「やろうと思ったらやる」という事しか考えませんね。あとは本気になるかどうかです。

・本番では、人間は普段通りの力さえ出ませんよ。ましてやそれ以上の力なんて期待してはいけない。120%出せなんて無理。80%も出せたら、ようやった。90%出したらやりすぎちゃうかですね

・問題は弱みがあること自体ではない。自信のなさや不安から、他人との間に無意識に壁を作ってしまうことにある。

平尾誠二の名言より引用

固定概念にとらわれないその柔軟さ

平尾誠二 イケメン

選手として、監督として数々の実績を残し、日本ラグビーを変えてきた平尾誠二さん。

その数々に共通することが『固定概念にとらわれないその柔軟さ』にあります。
『ポジションにとらわれないラグビースタイル』『代表にもたらした様々な改革』

それらは、全て自ら考え、前例のないところから編み出したものばかりであり、そんな常に新しい可能性に挑戦するラグビー人生。

そんな『生き様』が平尾誠二さんの魅力の一つでもあります。

ミスターラグビー・平尾誠二はラグビーファンの中で生き続ける

平尾誠二 イケメン

53歳という若さで亡くなり、そのジェットコーターのように駆け抜けたその半生。

そこからの歩みには停止線がなく、どこか生き急ぐように輝かしい経歴を刻んでいった平尾誠二さん。

平尾誠二さんはガンを告知されてすぐ、生前親交の深かったiPS細胞で有名な山中伸弥教授にこう言ったと言います。

「一瞬一瞬を全力で生きてきたから後悔することは何もないんよ。これが運命なら、もう十分生きたってことやと思うわ。自分が満足してるのに、なんで延命せなあかんの?」

その駆け足で太く短く駆け抜けた濃密過ぎる人生は本人もきっと『後悔』という言葉とは無縁な人生だったのではないでしょう。

平尾誠二 経歴

そして、今のラグビー代表の躍進を予測し、日本代表に様々な改革を施した聡明な平尾誠二さん。

今の日本代表の躍進はこの平尾誠二という男なしでは成し得なかった。
そう断言していいほど、平尾誠二さんが今の日本ラグビー界に与えた影響は計り知れません。

しかし、平尾誠二さんの駆け抜けたその人生はラグビーファンが生き続ける限り、その記憶の中に生き続け、そして後世に語り継がれていくことでしょう。

そして、今の日本代表の活躍も平尾誠二さんも天国から見守ってくれていることでしょうね。

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