デヴィ夫人の若い頃が美人すぎる!壮絶な生い立ちの半生がヤバイ・・・

デヴィ夫人 若い頃
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テレビで長年よく見かけるデヴィ夫人。

日本国民はこのデヴィ夫人のほとんど知っているでしょう。
しかし、その知名度に関わらず、「そういえば・・・デヴィ夫人って何をした人?」

なんていう人も多いのではないでしょうか。
それに加えて、デヴィ夫人はこの年齢でこれだけの美貌。

若い頃は一体どれだけの美貌を持っていたのか?
そんなことを想像してしまう人も少なくなないのでしょうか。

今回は、そんなデヴィ夫人の若い頃の画像をその壮絶な生い立ちと共にご紹介したいと思います。

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謎の多い大御所タレントデヴィ夫人

デヴィ夫人 若い頃

プロフィール

名前:根本 七保子(ねもとなおこ)
(後にラトナ・サリ・デヴィ・スカルノに改名)

生年月日:1940年(昭和15年)2月6日
出身地:東京府東京市麻布区霞町(現:東京都港区西麻布)

 

元インドネシアの大統領夫人

デヴィ夫人 若い頃

「デヴィ夫人は一体何をした人?」
そんな答えは一言で、「インドネシア大統領の夫人」だった。

そう答えられるでしょう。
これだけで、デヴィ夫人がどれだけすごいかがなんとなく想像できますが・・・

しかし、デヴィ夫人は初めから家が大富豪でもなければ、むしろ貧しい家庭。
そうなんです。

現代版のシンデレラストーリーを成し遂げた人なんです。
その壮絶な生い立ちから成し遂げた偉業。

一体どのような経緯を辿っていったのでしょうか?

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デヴィ夫人の若い頃①出生〜学生時代

デヴィ夫人 若い頃

こちらが、デヴィ夫人の若い頃の画像。

う・・・美しすぎる….
今の女優さんでは太刀打ちできる人はいないんじゃないかってぐらい美人さんですね〜。

では、そんなデヴィ夫人の若い頃からの半生を詳しくお伝えしていきましょう。

日本人の両親の元で生まれる

デヴィ夫人はその名前からハーフの人なのかな?
そう思っている人も多いかもしれませんがバリバリの日本人です。

本名も根本七保子というめちゃくちゃ日本人の名前。

日本人の八平さんと日本人の政子さんの間に長女として誕生。
デヴィ夫人があそこまでハーフ顔な理由はこの兵七さんを見たら納得ですね。

かなり目がぱっちりしてて、日本人離れした顔をしています。
恐らく、父親が海外の血を引いていたのでしょう。

デヴィ夫人が純日本人なのにここまでハーフ顔をしているのはその理由でしょうね。

15歳で芸能事務所に所属

デヴィ夫人 若い頃

港区の高陵中学校似通っていた中学時代から芸能事務所に所属。

1955年(昭和30年)、15歳の時、新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演。

デヴィ夫人 若い頃

当時こんな美貌の女性がいれば、場所も東京ですしすぐにスカウトされるでしょうね。

当時の大女優だった浅丘ルリ子さんとも交流があったようです。

父の死とともに高校中退

デヴィ夫人 若い頃

東京都立三田高等学校定時制部に進学すると同時に、150倍の難関を突破して千代田生命保険(現・ジブラルタ生命保険)に入社。

デヴィ夫人 若い頃

しかし、昼休みや休日にも貧しい家計を維持するため、喫茶店などでのアルバイトを掛け持ちする超ハードな日々を送りました。

しかし、父親の兵七さんはこの頃に亡くなってしまいます。
一家の大黒柱を失ったデヴィ夫人の一家。

そんな家計を支えるためにデヴィ夫人は高校を中退することに。

デヴィ夫人の若い頃②水商売時代〜インドネシア大統領まで

赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働く

デヴィ夫人 若い頃

高校を中退し、当時17歳で赤坂の超高級ナイトクラブで働くことになったデヴィ夫人。

当時の大卒初任給が1万円の時代に水割り一杯が1万円。
テーブルチャージ料にいたっては10万円という超敷居が高いクラブでした。
(当時の10万円は今でいうと200万円ぐらいです)

お客様はプライベートジェット持ちの大富豪ばかりだったとか…..

デヴィ夫人 若い頃
デヴィ夫人の若い頃の着物姿↑あ・・・圧倒的すぎる…..

そして、この業界に入りもともと高いポテンシャルを持っていたデヴィ夫人。
このクラブ時代にデヴィ夫人は女性を磨き、一流の女性へと変貌を遂げていきます。

そこでも人気ナンバーワンだったデヴィ夫人。
同僚たちは「デヴィ夫人の顔にして」と整形外科に駆け込んだという逸話まであるほど。

デヴィ夫人 若い頃

また、この高級クラブで働くことで、お金だけでなく、様々な人たちとの繋がり。
そんなものも手に入れることになったデヴィ夫人。

そして、そんな繋がりが思わぬところで大化けすることになります。

インドネシア大統領との出会いそして結婚

1959年6月、デヴィ夫人が19歳の時。

映画を見る時にたまたま友人に誘われていて立ち寄ったという帝国ホテルのパーティー。
ここで人生を大きく変える出会いをすることになります。

それが、当時のインドネシア初代大統領のスカルノ。
このパーティーでスカルノとの親交を深めたデヴィ夫人。

その後、手紙をスカルノ大統領からもらい、2週間の予定でインドネシアに渡ることに。
そして、インドネシアに渡ったデヴィ夫人はすぐにプロポーズされることになりました。

デヴィ夫人 若い頃

19歳にして、インドネシア初代大統領の第3夫人になったデヴィ夫人。
まさに、「現代のシンデレラストーリー」を実現したその快挙に日本中は大騒ぎ。

その当時の年の差もなんと39歳という超年の差婚だったことも大変驚きですね….

また、この頃に日本国籍からインドネシア国籍へと変更したデヴィ夫人。
それと同時にスカルの大統領から「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」と名前を授かり改名。

これが、今のデヴィ夫人と呼ばれる所以です。

相次ぐ身内の死

デヴィ夫人 若い頃

しかし、日本人女性が大統領夫人へ嫁ぐ。

そんな前代未聞の騒ぎにマスコミは大騒ぎ。
同時期にマスコミの執拗な取材により体調を崩していた母の政子さんが亡くなりました。

更にその2日後、セールスマンに全財産を騙し取られたうえ、母の死に目に逢えなかった実弟の八曾男が、自宅アパートでガス自殺。

そんなシンデレラストーリーの実現と共に、19歳にしてデヴィ夫人は天涯孤独になってしまいまうことに。

また、デヴィ夫人は当時のことを「何時までも心を離れない悲しいトラウマになっている」と告白しています。

後にジャカルタの宮殿の一つに実弟の名「ヤソオ」と名付けました。
この宮殿はのちに接収され、軍事博物館になっています。

インドネシア大統領との間に第一子を出産

デヴィ夫人 若い頃

そして、デヴィ夫人が27歳の時の1967年(昭和42年)3月11日。

都内病院にて娘のカリナを出産する。
正式名は「Kartika Sari Dewi Soekarno. Kartika Sari」。スカルノ大統領の8番目の子供でした。

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デヴィ夫人の若い頃③亡命時代

スカルノ大統領が失脚そして死亡

デヴィ夫人 若い頃

しかし、その当時はスカルノ大統領がクーデターを起こされ失脚していた時期。
デヴィ夫人は政治的に亡命者に寛容なフランスを亡命先に選びます。

亡命とは、「本国を脱出して他国にのがれること。」
スカルノ大統領は、インドネシアでは当時かなりの悪者として扱われました。

なので、インドネシアに住んでいるとそんな妻にも危害が及ぶ危険がある。
そのため、どこか国外に逃げる必要があったのです。
(このご時世に亡命の経験があるとは壮絶すぎる……)

27歳の時に、長女のカリナさんの出産のため人道的配慮から日本への帰国が許可され、その後も産後にインドネシアに帰国しようとしますがインドネシアから拒否。

そのため、亡命に寛容的であったフランスに渡り、その後社交界でデビューを果たします。
そして、その亡命から3年後の1970年にスカルノ大統領も死去してしまいます。

スカルノ大統領の遺産を相続

デヴィ夫人 若い頃

また、スカルノ大統領はクーデターを予期し、以前よりインドネシアからスイスへ巨額の資金を確保していたとささやかれていました。

しかし、1970年(昭和45年)のスカルノ死去時にスカルノ家、ならびにインドネシア政府から財産の相続の権利や子供のスカルノ一族としての地位などを喪失。

第3夫人としての資産は与えられなかったとも、言われていますが、実際には死去時に遺産が与えられたとも言われています。

その額は定かではありませんが、そのデヴィ夫人のゴージャスぶりから軽く何十億はいっているでしょうね。

今のデヴィ夫人のゴージャスぶりはこの故スカルノ大統領からの「遺産」
そして、その「遺産」を元に、投資や資産運用でつくりあげたとも言われています。

デヴィ夫人 若い頃

また、スカルノ大統領が亡くなったあと、インドネシアに戻り石油関連事業を行い、それでかなり当てたなどという話もあったり、インドネシアの不動産などもこの時期に取り戻しているなどなど….

共通することはこの「夫の遺産が資金」であることはまず間違い無いでしょう。

もうひとつ、国家公務員の家族は夫の没後国から年金が支給されます。

もちろんデヴィ夫人はインドネシア国民ですので、年金をもらっているはずであり、夫は大統領だったのですから並の公務員とは桁違いだろうと思われます。

亡命先フランスで社交界デビュー

デヴィ夫人 若い頃

フランスに亡命したデヴィ夫人。

「インドネシア元大統領夫人」として華々しく社交界デビューを果たします。
そして、圧倒的な美貌を誇っていたデヴィ夫人は東洋の真珠と持て囃されることに。

そして、このフランス亡命時にも数々の著名人とも浮世を流します。

デヴィ夫人 若い頃

一番大きな噂がされたのは当時フランスで圧倒的人気を誇っていた2枚目俳優のアラン・ドロン。

また、スペイン人のフランシスコ・パエサやフランスの貴族、エルゼアル・ド・サブラン=ポントヴェスと婚約したが破局。

その大物キラーぶりは今も昔も日本人でデヴィ夫人を超える女性はいないでしょうね。

その後は、1991年(平成3年)にアメリカのニューヨークへと移住。

ここからインドネシアの第一線から退き、その後の政変や第1夫人・第2夫人を中心とした政治の動乱には巻き込まれることもなく、日本に帰国し、現在に至っています。

デヴィ夫人のたくましさは今の日本人が見習うべき姿

デヴィ夫人 若い頃

デヴィ夫人のことを、「女の武器を使って成り上がった人」
なんて見方をしてしまう人は少なくはないでしょうか。

しかし、その今の地位は幼少期から家計を支える苦労や身内の死。
そんな数々の困難を乗り越えた先に、自らの手で掴んだもの。

その行動力は想像を絶するものだったでしょう。
そんな、自らの幸せを貪欲に掴みに行くその「たくましさ」

今の日本人に欠けている見習うべきものではないでしょうか。
そして、まだまだその美貌で世間を驚かせてもらいたいものです。

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